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My Story about 10s

小学校時代(後半)

 フルートを始めた私は、早く、全ての音を出せるようになりたいと、運指表と格闘し、無我夢中で練習しました。

 もやしのように痩せていた体も、練習の後には食欲が増し、もりもり食べるようになりました。

 とにかくフルートを吹けるようになることが楽しかったのです。

 ある日、私の父が、マクサンス・ラリュー氏のCDを買ってきました。聴いて絶句しました。フルートがうますぎる!こんなフルート聴いたことがない!どうなっているのかもわからない!(ヴェニスの謝肉祭のオクターブ部分は特に)

 当たり前です。世界的に有名な超一流のフルーティストです。そんなことすら当時の私は知りませんでした。CDに入っていたビゼーの「アルルの女」とフォーレの「ファンタジー」にも度肝を抜かれた私は、まずはこの2つの曲が吹けるようになることを目指して練習していました。

 そのタイミングで、苫小牧にジュニアオーケストラ(今は残念ながらありません)があると知り、バイオリンを弾いていた妹と一緒に入団しました。入団すると、私より年下の子達も器用にバイオリンを弾いている。。。一体なんなんだこの世界は!とカルチャーショックを受けました。

 当時、ジュニアオーケストラでは、ヘンデルの水上の音楽のホルンパートなどを演奏していました。管楽器の団員が全然足りず、フルート2人以外の音の補充は電子楽器でした。

 私が特に気に入っていた曲は選抜された先輩方のモーツァルトのディヴェルティメントとフルートの先輩が出ていたブランデンブルグ協奏曲です。父がCDを買ってきてくれて(当時は楽譜の入手方法さえ知りませんでした)何となく練習してみたりしていました。年を重ねてからは、このCD達は私の励みになりました。

 先輩は中学校3年生、私は小学校5年生でした。右も左もわからず、私には先輩が大人に見え、圧倒されるばかりでした。指揮者の先生(富岡萬先生)はオーケストラの曲での個人レッスンを熱心にされる先生でした。私はアーティキュレーションを丁寧に吹けるように粘り強くレッスンをして頂きました。ジュニアオーケストラでの札幌教育文化会館での本番では、組織についての説明をするナレーターを任されることもありました。先生には電話でナレーションのレッスンも受けていました。北海道訛りがひどく、何度も何度もイントネーションを直して頂きました。

 また、妹がバイオリンを習っていたので、家では妹と2重奏をしていました。バイオリンとフルートの時もあれば、妹が使わなくなった小さなバイオリンを借りて一緒に弾きました。妹のバイオリンのレッスンの時は私がピアノを伴奏したりもしました。しばらくすると、苫小牧ロータリークラブが主催した音楽コンクールがあるという情報を聞きつけました。

 緊張しながらアルルの女を演奏しました。この演奏がうまく行かなかったことで、もっとうまくなるにはどうすればいいのか考えました。ジュニアオーケストラの先輩がフルートの先生に習っていると聞き、先生をご紹介頂きました。ここで無事に初の師匠、箕輪早智子先生の元へ通うこととなりました。

 

 その頃ブラスバンドではピッコロも吹き始めました。しかしなんだか鼠径部がもっこりする。。。と1年くらい思っていましたが、母親に話し、お風呂場で見てもらったところ、「恵美子、これは病院に行くよ。」ということで、忘れもしない小学校5年生で初めての外科手術をすることになりました。

 病院に行くと、「脱腸です。手術はいつがいいですか?」と聞かれ、びっくりして私は泣いてしまいました。今考えれば手術内容はいたって普通ではありますが、小さな世の中にいた私は、まず一番に、「体に傷がついたらお嫁に行けない。」という心の声がありました。そんな私の心の声はつゆ知らず、手術の日程も決まり、夏休みの最後に入院しました。

 憂鬱な気持ちのまま、全身麻酔へうつります。手術前には、麻酔が効きやすくなる(?)薬を飲みますが、私は薬を飲んでからお手洗いに行こうと考えており、まさか薬を飲んだ直後から動けなくなるとは思いませんでした。体の不自由さと眠気で立てなくなり、母と看護師さんに抱えられお手洗いを済ませるとストレッチャーで手術室に運ばれました。看護師さんは、「今日は、病院内で一番優しい先生方が集まっているからね。」と声をかけてくれました。お医者さんは「ビキニが着られるように少し上に切るからね。」と耳元で教えてくれました。生きる希望が見えました。その後、吸入器をつけ、手術を始めたくない私は、意識を失わないように必死で頑張った甲斐もなく、看護師さんが数える数字を10まで聞く前に意識を失いました。

 目が覚めると、突然の激しい痛みが私を襲ってきました。傷口が痛いしとても眠いし、と気道を確保するための吸入をしながら目をつぶろうとしたら、看護師さんと母に、何度も「起きなさい!!!寝ちゃだめ!!!」とほっぺを叩かれました。この時叩かれてなかったどうなっていたのだろうと思うと、今でもとても恐ろしいです。

 容態が落ち着いて、友人がお見舞いに来てくれました。箸が転がっても笑う年頃ですが、笑うたびに手術後が痛み、嬉しいし痛いしと心が複雑でした。退院して安静にしていると、天井が回り始めて状況を理解出来ずとても怖いこともありました。

 その後は元気に、早速プールで泳いだりしていましたが、患部がどうなっているのか知りたくてたまらなくて、絆創膏を取ってみました。生々しいけど思ったよりもあっさりしていました。たまに、冬の乾燥した時期やストレスが多いときに痛くなることもありました。

 ある日、昼からブラスバンドの本番、夜はフルートの発表会と行事が重なる日がありました。私は昼食中に具合が悪くなりましたが、どちらの本番も出たいと母に話しました。しかし母は、昼は休むようにと私に言いました。夜の発表会はどうにか説得して参加しましたが38度5分の熱があるまま、バッハのポロネーズとバディネリを吹きました。私は昼の本番に出られなかったことをしばらくとても後悔していました。

 そして、自分の貯金と両親から半分出資してもらい初めて自分の楽器を手に入れました。当時の型番は、ヤマハの483のリングキーです。ストレートのリングキーにしばらく苦戦していましたが、大切過ぎて肌身離さず旅行にも持って行ったり、寝室では隣に置いて寝ていたことを思い出します。

中学校時代

中学校に入り、吹奏楽部に入部しました。中学校の音楽室が2つあることと、部室や楽器庫があることにとても驚きました。吹奏楽部の練習とは別に、レッスンでの曲のおさらいも必要でした。レッスンでの曲のレベルが少しずつ上がってきたためです。その頃には、中学校の吹奏楽団体コンクールでは1年生でソロをもらい、課題曲の一番最初の部分を一人で始める緊張した本番もありました。

 箕輪先生は、先生以外のフルーティストのレッスンを受けるチャンスを作ってくださったり、苫小牧のフルートアンサンブルアマービレでの演奏をさせてくださったり、市民オーケストラの第九の演奏会でピッコロを吹かせてくださったりと、演奏するチャンスを下さる先生でした。

 そうして過ごしているうちに、中学校の団体コンクール以外の時期は、アンコン、とかソロコン、があるらしいということを知りました。校内の予選もあったりで、ピアノ伴奏と自分のフルートと両方やっていましたが、中学1年生のときに、箕輪先生が、阿部博光先生を紹介してくださり、初めてレッスンに行きました。1年生の時の出場では、プレブサンのスイス民謡変奏曲を演奏しましたが、うまく曲を噛み砕くことが出来ず、いい結果が出ませんでした。2年生の時の出場で、ジュナンのベニスの謝肉祭で全国1位を頂くことが出来ました。私が全国1位を受賞した年は、コンクール自体の歴史がまだ浅く第2回目でした。3年生の時には模範演奏ということで、高校受験直後でしたが再度コンクール会場(アクトシティ浜松)に行きドビュッシーのシランクスを演奏しました。2、3年ともに、当時の北海道新聞や苫小牧民放が自宅や学校へ来てくださり、緊張した中、取材を受けたことを覚えています。当時の吹奏楽の顧問は、阿蘇一貴先生で、コンクールの何から何まで、大変お世話になりました。

 3年目の模範演奏は父と一緒に行きました。浜松の本番が終わった後は、当時、よく周りから名前を聞くようになった東京芸術大学の門の前で写真を取り、私は芸大の受験をしたい、と強く思うようになりました。しかし芸大のイメージはフルートで1番の大学、というくらいで、芸大自体を私はよくわかっていませんでした。

 

 私生活では、新聞で見た戦争の記事に対して疑問を持ち、新聞社の市民の意見箱のようなコーナーの留守番電話に、心の平安のために宗教があるのになぜそれで戦争が起こるのか私にはわからない、といった内容の電話をして新聞に意見が載ったり、使っているシャンプーの成分は授業で出てこないのでメーカーに問い合わせて聞いたりしていました。

 また、ラジオで聞いたエリック・クラプトンのサーカスという曲に衝撃を受けて涙し、音色の大切さに気付いた頃でした。

高校時代

 もっと短く書く予定だったのに、自分が大事だと思う事柄を書いていると、結構長くなってしまいましたが、自分のホームページだからよしとします。

 苫小牧東高校に入学してすぐ、まずは受験の準備を始めることになりました。

 試験に向けたレッスンは、先生方が全てフォローしてくださいました。箕輪先生のレッスンは週2回に増え、ピアノの太田代路子先生のお宅にも週2回通いました。フルートのケーラーのエチュードが終わってベームに入ったあたりからは阿部先生のところへも定期的に通うようになりました。先生方は、何も知らない私に、みっちり基礎を教えてくださり、それ以外にも太田代先生のお宅ではレッスン室に入り浸って生き方を聞いたり、作曲家を調べてメモしたり、聴音やコールユーブンゲンや楽典などのレッスンの合間に、フルートも聞いてくださったりもしました。私がモーツァルトが大好きになったのもこの頃です。

 先生方のまっすぐで真剣な情熱のある演奏と言葉達は、私にはいつもヒリヒリするくらい的確で、いつも私の弱い部分を鍛えてくださいました。そのお陰で、自分を甘やかさず、見失わずに奮い立たせることが出来ました。

 高校に入ってからは部活には入りませんでしたので、練習漬けの日々でした。当時の私のはやりの練習方法は、一人レッスンでした。自分で吹いて自分が先生のつもりで(一人で吹いて一人で自分に声を出して話す)練習していましたが、ある日、母親が部屋をノックしてきて、「恵美子、、、大丈夫?」と声をかけてきました。我を忘れていたんですね。一体私はどの先生になりきったつもりだったのでしょうか?(笑)

 北海道ではPMFという音楽祭があります。苫小牧でも演奏会が行われます。私が高校の頃は、チケットのもぎりをしていました。ウィーンフィルのヴォルフガング・シュルツ氏が木管5重奏での演奏で苫小牧市民会館にいらっしゃり、私は箕輪先生の横に座って聞いていると、箕輪先生のお知り合いの方が通訳をされているということで、特別にお話をさせて頂くことが出来ることになりました。

 急過ぎてパニックになりながら、シュルツ氏を目の前にしたときに、私は、頭が真っ白になりました。私は、シュルツ氏に向かって(日本語で)「私のフルートを聞いてください!」と言うと、シュルツ氏は「忙しいから、出来ないよ」と仰ったので、何度かの押し問答の末、私は、「30分でも、5分でもいいです!」というと、シュルツ氏は「明日キタラに来なさい」と仰ってくださいました。私は、自分で話をしておきながら、目の前で起こったことを理解するまでに時間がかかりましたが、次の日キタラに向かい、シュルツ氏にマルタンのバラードを聞いてもらうことが出来ました。シュルツ氏から芸大を受けるかどうか聞かれたので、受けることをお伝えすると、頑張ってね、と励ましてくださいました。

 この経験は、私にとって、清水の舞台から飛び降りる気持ちでシュルツ氏のハートに挑んだ、人生でも忘れられない日となりました。しかし、大人になったら理解出来ることも、「フルートバカ」であった私は、それぞれの方々の立場を考えずに行動してしまったため、先日シュルツ氏にお会いして、フルートを聴いてもらった、とのんきに先生に話すと、先生はびっくりした後、「恵美ちゃん!そういうことは私にも先に言ってください!」と言われました。今考えたら「先生、ごめんなさい」(心の声:そりゃあ先生も困るわ、、、)ですが、演奏を聴いて、感動して湧き上がる衝動と、大学受験への不安や才能があるかどうか、など、自問自答のタイミングが重なっていたのかもしれませんね。

 苫小牧での箕輪先生との大きなエピソードの1つは昭和新山の噴火のチャリティーコンサートに先生と参加したことです。屋外演奏で風が強く楽譜が飛ぶ状態の中でしたが、無事に終了しました。また、室蘭での憧れの先輩に追いつきたくて練習を頑張っていました。2つ目は、先生の代わりに室蘭での演奏会に出演したことです。これが私のフルート人生で初めてのお仕事です。高校では強歩という長い距離を歩く行事がありました。足の裏が水ぶくれになっていたその日の夜に行った演奏会でお会いした先生に、「恵美ちゃん、明日空いてる?衣装と靴と楽器を持って苫小牧駅に集合ね。」ということで、一緒に室蘭へ向かいました。先生は手首を負傷したようで、最後までよくならなかったら私が代わりに吹くということになり、真っ青になりながら電車の中で譜読みしたことを覚えています。リハーサルが始まると、私が読んでいた場所は、演奏会では演奏しないことがわかり、また真っ青になりました。リハーサルを終え、刻々と時間が過ぎていきます。会場のアナウンスでは、出演者が私に交代になったことが伝えられました。室蘭には先生のファンが多いことを知っていたので、心底ドキドキしながら本番に臨みました。

 ここで、祖父からのお金で、高いフルートを買うことになりました。私の貯金では手が出る代物ではありませんでしたが、ピン!ときた、少し予算をオーバーしたパウエルフルートのオーラマイトが私の友となりました。頭部管の作りが、初心者モデルとは全く違うので、音を整えるまでに時間がかかりました。そのときに出たコンクールでは、一番最初の音を外すという、一番心が折れる瞬間まで体験しました。

 演奏での失敗と言えば、初めての阿部先生の門下生の発表会の時に、マルチェロのソナタのF-Durを演奏しました。札幌での発表会デビューで緊張の中、2楽章で暗譜が飛び、無限ループに入りました。覚悟が決まった私は、一旦演奏をやめ、2楽章の最初から吹き直した、失敗のデビューでした。この失敗がなかったら、暗譜の恐怖もなかったので、頭の中が真っ白になっても指と口だけは動くというところまで練習するようになることはなかったと思います。

 また、阿部先生の門下生である同期のライバル達には本当に恵まれました。コンクールや受験の大きな山の度に、先生が刺激のあるレッスンをしてくださり、お互いに話をしたり、演奏を聴いたりする機会に恵まれました。それが受験に大きく関係していたと思っています。スランプの時にはアレクサンダーテクニークの受講も薦めてくださいました。

 とにかく毎日が挫折、立ち上がる、レッスンでも挫折、立ち上がる、の繰り返しで書ききれないほどの経験をしました。私は、気持ちが溢れると、勝手に涙が出てきてしまう性格で、レッスンに伺い先生が何も仰っていないのに、勝手に泣き出してしまうようなこともあり、本当に手間のかかる生徒だったと思います。(結局泣き虫は今でも直りません。。。)

 時期をみて、合宿や講習会に参加するようになりました。日々の生活から離れ、修行僧のように、練習とレッスンに明け暮れます。私は阿部先生の合宿と、東京音大の夏の講習会、金昌国先生の合宿に行くようになりました。地元の仲間達やこれからの受験のライバルになるかもしれない仲間達と、演奏を聞き合ったり、交流を深め情報交換をしたり、練習とレッスンに明け暮れました。そこで知り合った仲間と文通もしていました。私の時代は、携帯電話が出始めで、高校生がPHSを持っていた時代です。(私は持っていませんでした。)そのうちに、東京へレッスンを受けに行くことにもなりました。スカイメイトで朝1便に乗って最後の便で帰るという生活です。遅くなってしまい、空港で猛ダッシュをした日もありました。全国の受験生が集まり合同でのレッスンがあり、もう私はここまで来たら逃げられないぞ、とライバル達の演奏を聴きながら思ったものでした。

 どの演奏家の皆さんも、受賞していないコンクールは経歴には書かないと思います。私も、学生音楽コンクールや、日本クラシック音楽コンクールなどに出場しました。学生音楽コンクールは、東京本選で奨励賞、日本クラシック音楽コンクールでは、全国大会まで行きましたが賞は取れずで終了しました。高校の修学旅行はコンクールの前日まででしたので、修学旅行を諦め、積み立てした旅費をコンクールの旅費に充てました。我が家の教育方針で、旅行に関する手続きは全部自分でやるようにとのことだったので、私は近くの旅行会社や電話をかけて調べながら、航空券を取ったりしていました。

 

 
 当時の私の生活はこんな感じでしたが、自分で弁当を作っていたので、レッスンの次の日の朝に作る弁当は、襲ってくる眠気と一緒に白いご飯をサランラップに入れて、ふりかけか塩をかけて持って行っていました。よくこれが昼食になっていたなぁと思いますが(笑)見かねた母が弁当作りを代わってくれるようになり、次は高校に入学した妹が作ってくれることになり私は一層音楽に集中出来る時間が増えました。

 その頃はアース・ウィンド・アンド・ファイヤーなど、ファンクやソウルにはまっており、音楽を聴きながら踊っていました。

  

 受験の時は、1ヶ月、ウィークリーマンションで一人暮らしをしました。昼はカラオケで練習、たまに関係者の方々のお宅へお邪魔して練習しました。高校の卒業式は出られませんでしたが、大変貴重な経験をした1ヶ月でした。

大学時代(前半)

 大学に入って一番びっくりしたのは、周りのレベルの高さです。先輩方の演奏を聴いて絶句したし、そんな先輩方の前でレッスンを受ける環境に、チキンな私は、レッスンがレッスンにならないほど緊張していました。

 朝7時に学校行き、基礎練習をした後に授業を受け、レッスンを受け、また夜まで練習、というスケジュールに、ゴールデンウィークには、体調を崩し、うまく続けられなくなりました。

 しかし、先輩方は色んな方がいて、そんな背中を見ていると、練習に時間をかけることは大切だけれど、その練習の仕方にもバリエーションがあることを知りました。

 1年、2年は、金先生の合同レッスンでコンクールのレッスンが中心のクラス、TAの先生の基礎練習クラス、浅生先生のレッスンで、私は金先生のクラスのインスペクターをしていたので、レッスンのコマを調整する役割でした。

 金先生はアンサンブルオブトウキョウというオーケストラを主催されており、このオケのゲストのフルーティストをエスコートする経験もしました。全て英語での案内なので、もともと勉強ができない私は、とても苦戦しました。会ってお話する時は身振り手振り等で伝えることも出来ますが、ゲストから電話が来た時は、話していることを私が理解出来るか、そして、私が話したことを理解してもらえるだろうか、とドキドキしながら話をしました。しかももっとドキドキすることに、一流の音楽家から私に電話がかかってきて、(お会いしたことはあっても顔すら覚えてもらえる以前の関係性で)「今からゲストに代わるね」という電話まであり、知らない番号から沢山電話がかかってきて、それに出続け1つ1つ解決して行かなければ行けないわけで、、、田舎町で育ってきた私には、どう考えても初めて行うことばかりでした。(これが当たり前な世界なのです笑)

 浅生先生のレッスンは、沢山の気付きを得られるレッスンでした。自分一人で練習を続けられる一生の宝物、練習の仕方を習得させて頂いたように思います。求められるエチュードの量が多く、自分の練習時間にどんどん前に行かないと1回のレッスンでもついていけないくらいで、1時間のレッスンの最後の方は、ネタがなく真っ青になりながらレッスンを受けていました。そこで、譜読みの早さと楽譜から出来るだけ早く正確に情報を受け取るための方法を学びました。

 

 

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